私の大好きな場。理事会総会。

どれくらいの間、堅苦しく重く肩にのしかかってくるような理事会総会だっただろう。

私はどこかで息をひそめていた。

審判されるような怖さすらあった。

 

それがどうだろう。

こんなにみんながワイワイガヤガヤと生き生き存在できる場に変わった。

もちろん、土台となる内容を丁寧に吟味してくれる仲間がいてくれてこそだけれど。

でも、それでもやっぱり場の空気が変わった。

一人一人が自由に存在している。

みんなで分かち合い、智慧を出し合い

笑って、泣いて。

まるで、人間賛歌のような時だった。

 

理事会総会が終わった時だった。

今年の資料を思わず抱きしめていた。

 

みんな

こころから言わせてください。

共にいてくれて本当にありがとう。

1996年からの出会いでした。

中野重行先生


こちらこそ、本当にご無沙汰してしまいました。
メールをありがとうございます。
仲間に、是非に前田から返信させて欲しいとお願いしての、 このメールです。


毎年ご案内をさせていただきながら、自然消滅すれば、 それで良いのかもしれないと私も思っていました。 こころは通じてしまうのですね。
中野先生からこうしてメールをいただけて、胸が熱くなりました。 私から、メールをできないままでいたことを改めて思いました。


一昨年、次女が肺がんで亡くなりました。そして、昨年、 私に子宮体がんが見つかり手術をしました。早期発見でした。
それから、2ヶ月もせずに長女が突然亡くなりました。
松下先生を始め、他にも2人の医師にこころを聴いてもらって、 クスリと共に生きています。
患者家族になり、患者自身になり、何より必要だと感じたのは、 人と人との対話でした。


イエス・キリストという人は、、」
中野先生が、 そう言ってイエスの考えを話されたことが強く印象に残っています 。
エスも1人の人だったのだ。なんということだろう。 私も生きている1人の人でした。


母に対する想いが特に強く、 認められたいというこだわりが強い私は、 中野先生に救われたんです。
卑屈であっても、傲慢であっても、 その人がその人であればいいという願いは手放さなくてもいい。
そう、私は私でいいんだと思えたのです。


中野先生が、「いのち」と本当に大切に向き合い
言葉に紡いできてくださったからこそだと、私は思います。


「核は○よりも楕円形の方がしっかりするんだよ」
研究会に対してそう言われたことも、 はっきりとこころに残っています。
今こそ、私たちそんな仲間になれています。


医療の質の向上云々だけでなく、〝「ご自分のいのち」 と向き合う活動でもあります“
中野重行節を久しぶりに、こころ深く刻印しました。


こちらこそ、本当にありがとうございました。
中野先生の「いのち」が、また多くの「いのち」 に引き継がれていくこと、わくわくします。
 私も、仲間と一緒にこれからも切磋琢磨していきます。何より「 こころ」を感じられるSPを広げていく所存であります。


総会の折に、 中野重行先生からのメールのこと分かち合いたいです。


中野先生
どうかお元気で、 中野重行節をこの世にまだまだ轟かせてください。


長きにわたり、多くの気づきを本当にありがとうございました。
何より、SPを大切にしてくださったこと
本当にありがとうございました!

 


岡山SP研究会
前田純子

 

中野重行先生より

前田純子さま
岡山SP研究会の皆さま


大変ご無沙汰しております。
この度は、 岡山SP研究会のご案内をいただきありがとうございます。


私は2020年にコロナ禍が始まって以来、岡山だけでなく、 大分も、東京も、山形も、 全くSP関係のお手伝いはできていません。
縁あってSPの育成に関わるようになり、「 医療コミュニケーション」について考える機会を与えてもらい、 本当に多くのことを学ばせていただきました。 感謝の気持ちでいっぱいです。岡山SP研究会の皆さまには、 温かく迎えていただきありがとうございました。


「始まり」のあるものには、いつか「終わり」 が来るのが世の常です。実はこのまま、 アドバイザーの役割も自然消滅のような形で、 フェードアウト出来れば有り難いと思っていました。しかし、 私からそのことを言い出さなければ、 いつまでも皆様にお気遣いをさせてしまうことになるようですので 、アドバイザー役は辞任させていただきたいと思います。そして、 静かにフェードアウトさせてください。


まだまだ私自身は元気でいますが、1940年の辰年生まれです。 今年は年男になります。ものの整理、仕事の整理、 その他諸々のことの整理などを真剣に考えなければならない歳にな っています。 大分で活動していた医療コミュニケーション関連のNPO法人は、 昨年解散しました。 半世紀以上勤めてきた大学を離れてからのこの10年近くは、「 健康寿命」を延ばすための公開講座を、 ホルトホール大分で開催しています(90分X20回/年)。 大分市民の多くの仲間たちと一緒に、「いのち」 についての勉強会を続けています。多分これは私の「いのち」 がある限り、継続することになると思います。


SPの育成に関わる場から離れて久しい時が流れていますので、 勝手を申しますがお許しください。


SPのお仕事は、 わが国の医療の質の向上に欠かすことができません。 それだけでなく、ご自分の「いのち」 と向き合う活動でもあります。
最後になりましたが、皆さま方のこれからのご活躍と、 岡山SP研究会の益々のご発展を祈念しております。


自然に恵まれた豊の国にて
中野 重行

SPがやりたかったこと

医療面接スキルアップセミナーがあった。

プライマリケアを学ぶ学生達が集まった。

進行はOCSIAのOG川口先生。

川口先生作のシナリオと、猪田さん作のデモ用シナリオで、SP3名で臨んだ。

「基本は特定の型にとらわれない、学生さん個人が持っているもので、人間対人間の対話をしてもらえたらと思っています。」

川口先生の想いが、メールで何度かやり取りされた。

 

ロールプレイを6回。

OCSIAOGの光田先生もファシリテーターで参加されている。

そして、川口先生と、光田先生とデモをそれぞれ1回。なんて幸せな患者だろう。

そう思った。

 

感情を丸出しにしながら、本気の時間を過ごした。 「これがやりたかった。SPはこういう働きをしたかったんだ」

何度も何度も溢れんばかりの想いが溢れた。

“医療面接“が1人歩きし始めた気がする医療教育の真っ只中で、SPが本当にやりたかったことはこれなんだ。

 

仲間。

月1回のSP定例会。

まだまだ仲間が集まる機会は少ないけれど

その分、1回1回の時間がとても嬉しい。

参加出来ない仲間も、メールや電話で伝えてくれる。その事も嬉しい。

今日、広島の佐々木さんから久しぶりに電話があった。

「今日参加できなくてすみません」その気持ちに驚くと同時に、本当に嬉しかった。

仲間が集まる場を、こんなに大事に思ってくれているのが伝わってきた。

そして、続いた。

「前田さんが、久しぶりにブログを書いていたのを読んで嬉しくて、これは電話で伝えたかったんです」

そうだった。久しぶりにブログを入れたことを

私すら忘れていた。

佐々木さんの電話を切ってから、泣けた。

うんと泣けた。

 

姉と生きた日々。

姉の供養にと、姉と過ごした日々を書いた日記を読み返した。

「人間であるということ。人と人であること。そこを大事にしなければ医療は成り立たない」川崎医科大学の実習で、SPとして伝えたことを話すと

姉は「すごい!」と、拍手してくれた。

そんなことが書かれていた。

 

末期ガンで姉は川崎医科大学病院に入院し、オンラインで話したこと、か細い手で一生懸命拍手してくれたこと。ありありと思い出した。

 

姉にSPのことをこうして聞いてもらったのは

姉が病気になってからだ。

 

姉が亡くなる5日前から、日記は白紙になっていた。文字に残せなくなっていた。

それが余計その5日間を思い出させることになった。

どれだけの時を経たとしても。

どれくらいぶりだろう。

岡大で行われたがんプロ研修会に参加した。

ステージ4で肺がんが見つかった姉が亡くなって

1年と2ヶ月。私の子宮体がんの手術をしてからもうすぐ1年になろうとしている。

そんな時に、この場でSPをすることになった。

「切り替えることが出来るのがSP」だと、思いつつも、やはりどうかなあという不安もつきまとっていた。

最初が、なんと肺がんの役だった。

告知を受けるまで、同じやり取りが続いた。

4回目のロールプレイで、とうとうその時がきた。

「、、肺がんです」「、、うっ」

「はい!ここまで」ロールプレイは止められた。

感情の表出も当然止められる。

いったん診察室を出て廊下の椅子に座り、しばらく呆然とした。

少しして、涙が流れた。

今なのか、思い出なのか、時間が交錯している。

でも、その涙に温もりを感じたのも確かだし

姉がそばにいる気がしたのも本当だ。

やっぱり切り替えるのは難しいな。