“オンライン距離”

岡山県立大学栄養学科で

2年ぶりの対面実習に参加した。

マスクをして、フェイスシールドをした学生たちは、不思議な距離感を持っている。

SPをしていても、こころがあまり波立たない。

すーっと時間が流れていく感じ。

あれっ、終わった?という終わり方。

 

でも、それは学生たちが冷たい訳でもなく

曖昧に話を進めるような意図的なものでもない。

それが自然だとしたら、それはコロナ禍での

オンライン授業や、集団での集まりが全く無くなった弊害とも言えるのかもしれない。

 

かと言って、それがこれからもただ弊害で終わるのでは無いと思う。

人との距離のとり方や、関わり方は確かに拙いかもしれない。

でも、下手に群れることや、人に合わせることが

欠けているのなら、それはかえって自分に向き合えることに繋がりやすいのではないか。

 

かわいそうって言われるこの時代に

培われるだろう“オンライン距離”は

きっといつか人間関係に生かされるはずだ。

私は、ふとそう思う。

 

 

残しておきたいこと。

仲間と話していると

思わず引き出される想いがある。

なんの脚色もない顕な想いだ。

「人生振り返ると汚点ばかり」と出た言葉に

続いた。

「その汚点が輝いて、映像になって浮かんで、私に今話しかけてくれてる」

「辛かったなあ。寂しかったなあ。苦しかったなって」

汚点って。そんな想いが自分にあったこと、こうして振り返れた。

 

何かしたという証があったのでもなく、それが何かしたという結果でもない。

ただ、自分に向き合い、自分を生きている。

それをただ、讃えあえる仲間がいる。

 

 

 

 

 

 

SP勉強会。

ロールプレイをするつもりだったが、シナリオのイメージを分かち合うことに変えた。

集まって話せるだけでも、もうそれだけで嬉しい。

それで時間がなくなってきたというのもあった。

でも、それぞれのイメージを聞くだけでも

刺激的な時間だった。

それだけでそれぞれの、その役が立ち上がってくる。

勝手に想像出来てしまう。

反面、シナリオの紙面上でとどまっているところも見えてくる。

でも、何より感じたのは、分かち合うことで

他者が見えてくるものを受け入れることが出来るすき間があるかどうかだった。

それを受け入れるすき間があるかどうかは、イメージが本当に立ち上がっているかどうかの確認にもなる。

 

これは、聴く耳が持てるかどうか。

生きる上で、大事なことそのものに繋がることだと思った。

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(美しい会場も、テンションが上がった)

今の岡山SP研究会。

倉中看護の時本先生が、理事会総会で感じたことを話してくださった。

静かに、そして、気持ちが湧いてくるように話されるなあって、感じた。

でも、その内容はとても熱かった。

「私はSPさんのことがわかってなかったのだと思います。みなさん自由だったでしょ。自分を感じて自分を解放させる力がある。ああ、それがSPさんなんだって思いました。オンラインでしたけど、開かれた場だって感じました。そんなこと、今更言うのはおかしいかと思って」

「その人がその人であるって。本当にそういう場でした」

私は泣きそうになった。

嬉しかった。

 

OCSIA日記。

テーマは、初診-患者の背景に迫る。

SPのフィードバックの後に、その患者の背景を伝えると、学生たちはどよめく。

何よりもその反応が大きい。

いやいや、答え合わせじゃないから。

患者の背景って、聞けなかったとか、聞けば良かったとか。そうやってロールプレイの後に一喜一憂するのものじゃないから。

ああ、そんな背景があったから、あの言葉だったんだー

ああ、そんな背景だったから、あの表情があったんだー

って、振り返って欲しいだけだよ。

 

2回生の女子学生が、ロールプレイの後の感想でこう言った。

「病気を知らなくても、まだ病気のことわからないけど。

話をいっぱい引き出すことができるんだって思いました」

 

5回生の女子学生、ロールプレイをした後に

フィードバックを受けての振り返りでこう言った。

「ああ~、医療面接ってどんどん難しくなっています」

それは、深まっているからだと思うよ。

 

呼びかけだと受け止められる、今。

岡大歯学部OSCEと、高知大PCC-OSCEの日にちが重なった。

人数調整をどうするか、私は慌てた。

相談した結果、岡大歯学部に対して、新しい形をこちらから要望することも必要ではないか。

これはその呼びかけではないか。と、仲間と共にそこに至った。

どんなに慌てようとも、これが呼びかけだと受け止められるのは、結果重視ではない捉え方だと、私は思う。

そこからだ。何とかするだけではなく

呼びかけと捉えたことに、命を吹き込んでいく。

プロセスを大事にする。

できることはやるだけやって、あとは委ねる。

 

そして、仲間たちが、この事態をしっかりと受け取めてくれた。

メール上での“調整さん”だけれど、応えをくれたその印からも、それぞれの状況や想いが伝わってくるようで、何度も調整さんを開いては、その度に込み上げるものがあった。

 

呼びかけだと受け止められるって。

ひとりじゃないんだよね。

何度も何度もそうつぶやいている。

それが、岡山SP研究会の今だ。

私たちの理事会総会。

わからないことを「わからない」と言える。

どきどきと緊張して声がうわずっても

それがとても自然で。

それでも、しっかりと場が定まっている。

それは、なんて自由だろう。

一人一人が、ただ存在している。

それは、なんてあたたかいだろう。

 

そんな場が出来ていることが

私は、何より誇らしい。