病室に母のいびきが大きく響いた。
母はきっと自分のいびきで目が覚めたのだろう。
「純子、お母ちゃんのいびきうるさいから先に寝て」
そう言われて、“ほんまじゃあ 今のうちに寝よ”
私はそう思ったけど何も言葉にせず眠りについた。
母に何か異変が起こっていたのだろう。確かに普通のいびきではなかった。気管が狭くなっているのか、なかなか出ない空気がやっともれ出たような苦しそうないびきだった。
夜中静かなことにふと気づいた。
“まさか死んでる?そんなはずないよな”
一瞬ドキッとした。でもすぐに打ち消して再び眠った。
「前田さん!前田さん!!」不思議なイントネーションが耳についた。いや、叫んでいる!驚いて飛び起きた。
「前田さん!前田さん!!」看護師が母を揺さぶっていた。
骨折して入院し、その左肩を固定させているので
母は仰向けで寝るしかなかった。
でも、今、看護師に揺さぶられている母は左肩を下にしてとてもリラックスして横たわっている。そう見えた。それはほんの一瞬だった。
すぐさま私は横たわる母に触れた。
体験したこともないようなその冷たい感触がすべてを教えてくれた。
「お母ちゃんが冷たくなってる」姉に電話して最初にそう言ったことをはっきり覚えている。
それだけその冷たさが私を打ちのめしたからだと思う。でも、まだ死んでると思いたくなかったからかもしれない。
それが母との別れだった。
猫たちと神戸から岡山に帰ってきて7日目のことだった。
突然の死で原因がわからないということで母は解剖となった。
私の記憶はここからが最も鮮明だ。
戻ってきた母は頭に綺麗に真っ白な包帯を巻いてもらっていて、とても穏やかな表情だった。
ごめんな、お母ちゃんごめんな。
私は泣きながら母に一方的にしがみついた。
そして、泣いて泣いて泣いた。
どれくらいの時が流れたろうか。
ありがとうな、お母ちゃんありがとうな。
私は母からしがみついていた両手を離して母の顔を見ながらゆっくりと声に出した。その時母の枕元が柔らかい桃色に染まっていることに気がついた。
すると私が着ていたグレーのセーターも、母の枕元の桃色と同じように染まっている。
私から血の涙が流れていた。その涙が母の枕元をも濡らした。いやそう思ったんだ。思えたんだ。
この世での別れは、こんなにも痛くつらい。
でも私はその時その別れを静かに感じていた。
にわかには信じがたいその現象は、母と私の別れを大切に彩ってくれたかのようだった。
そこからあとの記憶は不思議なくらい断片的にしか映像は浮かばない。
お通夜の場で、私は息の仕方を忘れた。どうやったら息を吸い吐けるのかが一瞬わからなくなった。
それから当然息の仕方は思い出したがこころを閉じた。
突然の別れに対して怒ることも悲しむことも
私は封じたのだ。
感情に蓋をしたのだ。
あの静かな別れの時間だけをこころに残した。
だからこそ、本当に突きつけられた現実を私はとても受け止めることができなかった。
SPはこころを感じなければいけない。
日々の生活の中で動く感情をないがしろにしてはいけない。
SPとして大事なことに対して私は揺らがない。
そしていま、私の体験をあえてつぶやく。
こころなんて感情なんてわからない、わかりたくもない!とはねつけていた。
そしていま、私は振り返っている。
いや、振り返ることができたのだと思う。
私はSPをすることで、あの忘れられない場面を何度も何度も知らず知らず反芻していた。
いつしかあの時のこころの動きを客観的に見れるようになっている。
その上こうしてつぶやくという形で文字にできるようになっている。
こころを感じるということ。
SPとしてではなくこの私に必要だったのだ。
そしてこのつぶやきを読んでもらいたい仲間ができた。
母はきっと笑って喜んでくれているだろう。